21年目 忘れもしないあの3か月間

 

1995年1月17日火曜日 朝5時46分。   きょうは、あれから21年目。

単身赴任中だった私は、東京の自宅で震災のニュースを知った。この日、神戸へ戻る予定であった。

18時羽田発の飛行機がとれて乗り込み、伊丹空港から灘区までタクシーで5時間。真っ暗闇の中、倒壊した建物の間を縫うようにしたの阪神国道や脇道を進んだ。タクシーは播磨の方からお客を送って来た車で、向かう方向が同じだったので、乗車することができた。

(つづく)

 

2016.1.17 天声人語

 時を刻まなくなった時計は寂しい。街のシンボルの大時計となればなおさらである。時のまち、兵庫県明石市の市立天文科学館の塔時計は21年前のけさ、地震の起きた5時46分に止まった▼1カ月後に応急修理されたが、もうガタは来ていた。市は館の改修を機に交換すると決めた。「廃棄するなら譲っていただきたい」。声を上げたのが数キロ先にある神戸学院大学である▼「教員や留学生を失い、火災まで起きた。同じ東経135度線に接する大学として、地域の共有財産にしたいと願い出ました」。移設に奔走した宮本善弘・元大学事務局長(69)はふりかえる▼直径6メートル強、重さ4トンもある大時計。塔から外すときは、クレーンで中空に3分間静止させ、明石の街に別れを告げた。車の荷台に載るよう文字盤を4分割し、交通量の少ない深夜に運んだ。修繕して再び時を刻み始めたのは1997年春。被災から2年が過ぎていた▼「震災を風化させないという決意のシンボル。2千万円の費用は安くありませんが、思いは学生たちに伝わりました」。大震災に見舞われた東北へは在校生数百人が支援に向かった。被災者にやさしい避難食の研究が進み、小中学校に出向く防災授業も盛んだ▼阪神大震災の直後に詠まれた句がある。〈その時に止まりし時計冴返(さえかえ)る〉吉田松籟。あの朝5時46分、いったいどれほどの時計が枕元や壁で針を止めたことか。いったいどれほどの時計が持ち主を失ったことか。目を閉じて21年前の喪失を思う。

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