今年は節目の年 70・50・20

  今年は私にとって節目の年だ。

  ・戦後70年
  ・社会人になって50年

  ・阪神淡路大地震から20年

 

私は昭和17年生まれ。記憶に残る昭和20年代の生活、30年代の通学時代、慶應を卒業して神鋼に就職した昭和40年(1965)、平成5年(1995)1月17日の大地震。

 

大地震の直撃は、一時帰宅中で東京の自宅にいたため免れたが、その日のうちに神戸へ行き、それからユーティリティ回復・交通回復する3月末までの3ヶ月間、リュックを背負って自転車で通勤、単身寮ではとローソクの生活だった。

従業員の安否確認、社屋が壊れたため臨時に大阪の事務所ビルを借りる手続き、社屋の再建計画などなど、とにかく夢中だった。

 

1月17日は火曜日。いつもなら神戸で勤務しているのだが、前々日の1月15日(日)はラグビーの全日本選手権大会、神鋼対大東文化大学との決戦日。この応援のために役員が上京してきて、16日(月)は東京で打ち合わせを持つことになったため、私も東京にいたのだ。


お陰で小型冷蔵庫が空中を飛んだとも聞く激しい揺れを体験することはなかったが、これは幸いというべきだろう。なお、神鋼ラグビーは大東大を圧勝して新日鉄釜石と並ぶ7連覇を達成した記念ケームであった。

1995年は大地震や仕事で節目の年。地震罹災で歌舞音曲が制限されていて、そのためゴルフ・プレーも自粛していたが、それが解禁された直後の7月8日、私は神鋼同期のゴルフ会で劇的なホールインワンを達成した。城山GC(兵庫県加古川市)、No.14ホール、179ヤード、3番アイアン。

 

アマは5,000回~15,000回のラウンドで1回ホールインワンができるかどうかという確率らしいが、私はせいぜい500回位プレー数だった。ホールインワン保険に入っていて50万円を費消するのに苦労した。当時はテレカを作って配るのが主流だった。この快挙は吉なのか凶なのか。人生は未だ続く。

そして、同年12月、東京の仕事に変わり、単身赴任生活に終止符を打った。


まもなく慶応大学から3月に挙行される塾生の卒業式への陪席招待状が来る。慶応大学では毎年卒業後50年目をい迎える該当者に対して陪席させるのが慣例になっている。私は本年が卒業50年目に当たる。


(後から追加した記事)

こんな出来事…

民族排斥、悲劇は二度と アウシュビッツ解放70年で記念式典

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